1987年の「ひざげり」-2
2回目の自動車学校入学だ。
お金が無いから厳しいと言ったけど流石に補助はしてくれなかった。仕事中に教習に行くのは大目に見てくれたけど。
2回目なので余裕はあった。
アフターサービス部門は雑だった。凄く雑だった。
仕事は教えてくれない。職人の世界。
安全よりも早く仕事を終わらせることを優先。
機械を分解する際にまだ通電していて感電してしびれるので電源を切ってくれるように言っても、面倒くさそうな顔をして軍手を投げて寄越す。
アンモニアがまだ残った状態で作業をさせる。アンモニアは臭いって言うけど実際は臭いってレベルじゃなくて鼻の奥を叩かれたような痛さだ。
こんな感じなのでどう仕事してよいか分らず半分、遊んでいたようなもんだ。
おかしなことにアフターサービス部門がもう一つあって隣あわせの位置にあったのだが仲が悪かった。
特に向こうのリーダーがこっちを敵視していた。
このリーダー(以下、山猿)は自分より下の人間には平気で失礼な事を言うので嫌いだった。今でも嫌いなくらい恨みがある。
山猿に初対面の時に
「ひざげり君はどこの出身?」
と聞かれたので東京だと答えると
「なんだそうは見えないな。栃木の山奥から出てきたのかと思ったよ。」
と言われた。
初対面でこれだから後は推して知るべし。
結局、このアフターサービス部門には半年くらいしか居なかった。
急遽、本社で事務をやらないかと言う話になったのだ。
当時は女性社員は妊娠、出産したら育児休暇明けにそのまま辞めるのが通例になっていた。
なので女性の事務だと折角、仕事を任せられるとなったら辞めてしまうので次は男が良いと言いうことになり、そこでやっと事務職で採用した俺を事務職にしようとなったのだった。
環境が変わるのをというかフィリピンパブに行けなくなるのが嫌な俺は抵抗したが会社が決めたことを変えるわけがない。
いま思えばラッキーな異動だったのだが。実家に帰れるし、自分の得意分野の仕事になるし。
皮肉なことにアフターサービス部門に異動になったから通いだした教習所の卒業および運転免許試験に合格したら異動となった。
無事卒業出来て、運転免許試験場に受験しに行くことになったのだが場所は水戸。同じ県内とは言え遠い。始発電車に乗って行った。受かったから良かったようなものの、なんて不便なんだと思った。だって東京の運転免許試験場の方が近いんだよ。
でも、後で考えたら、どうせ実家に引っ越すんだから先に住民票を移動して東陽町で受ければ良かった。
引っ越しで心が折れそうになった。
ギリギリになったのでとても間に合いそうになく、このまま寮を1ヶ月借りて少しずつ整理して引っ越そうと思ったが、そうすると寮費の会社負担分が無くなるので4万円近い負担になると言われて愕然とした。
そんな中、仲良くしてた年上派遣社員のABちゃんが部屋に来て手際用パッケージしてくれて何とか間に合った。
TKNも手伝う体で部屋に来たけど、マンガを読んで邪魔していただけだった。
TKNで思い出したけど、高校の文化祭に卒業の翌年に行こうと思いTKNを誘った。
俺は一応、文芸同好会の会長をやっていたので後輩に良い顔しようと思った。
TKNは俺と約束した後にブラジルの悪魔に同日の早大の学園祭に誘われてそっちに行こうとした。
さすがに怒ったらこっちに来ることになったけど
「文化祭でお前と一緒に居て笑われないか?」
と素敵な言葉を残してくれた。
フィリピンパブにいつも送り迎えしてくれた組立の先輩、週末に実家近くまで送ってくれたYMDさん、引っ越しを手伝ってくれたABちゃん他、なんの恩返しもしないまま付き合いが無くなってしまった方々が思い出され、子供だったのでしてもらって当たり前と思っていた当時の自分を恥ずかしく思う。
なんの恩返しもしないまま音信不通になってしまい申し訳ない。
組立の先輩はほどなく転職し、YMDさんは海外に赴任して赴任先の国で転職、ABちゃんは派遣の期間が終わりどこかに行った。
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空手始めたきっかけとか、その辺りもいずれ出ますかね?
Re: タイトルなし
空手を始めた切欠は高校時代に有るのですが、それは1986-3に書いてあります。
始めたのはまだまだ先ですが、そこまで記事を書けるほど記憶が残っているか。