1986年の「ひざげり」-2
土台、院卒から商業高校卒まで一緒にやったって無理だよ。こっちは数学Ⅱまでしかやってないし、そもそも眠くて起きていること自体が困難だった。
しかし、落第は座学だけではなかった。工場の現場各所の研修でもついていけずに味噌っかす扱いされた。
実際何も出来なかったが、それにしても工場のオジサン達の中には陰険な人も多かった。
何も分からないまま必死になっている時に地震が有ったが気付かなかった。そのことを教育役のオジサンが別のオジサンに向けてジェスチャーで俺の事を「こいつはバカだから」とやった。
他にもほぼキチガイと言ってもいいオヤジも居た。何を喋っているのか分からない(訛りの所為ではない)からこっちが戸惑っていたり間違ったりすると切れて工具を投げてきた。なんであれを放置していたのか理解できない。そこに派遣で来ていた先輩が休みがちになってからすぐ居なくなった。
後はそのラインのリーダーに
「新幹線が何で早いか知ってっか?全部の車両が同じ速度で走るから早いんだぞぉ。」
と説教された。言いたいことは分かったが、別にわざと手を抜いてゆっくりやっている訳じゃなく本当に早くできないだけなのにそんな事言われても困ると思った。
ここまでに書いたオジサンたちは組立のAラインの人たちで、隣のBラインの人達はここまで陰険ではなく、若手の先輩も口は悪いけど親切だった。
ジャニーズじゃないけど若手の先輩の事は君付けで呼んでいた。
ま、俺もコンディションを整えようとしなかったのが悪いんだけどね。
高校時代からハマった「とんねるずのオールナイトニッポン」を聴きたくてタイマーも何もないラジオに120分テープをセットし、番組の始まりまで起きていて録音のボタンを押す。火曜日の1時まで起きているのはリスキーだった。
しかも晩飯の後にジュース1リットルとお菓子を食べている。こりゃ乱れすぎだ。
お陰で本来は購買部門に配属される予定だったのが寸前に呼び出されて
「向いてないんじゃないか」
という理由でそのまま工場の組立ラインに配属された。幸いBラインの方だったけど。
別に組立ラインなら俺が仕事が出来る訳じゃなくて、単に事務所での仕事より工場の現場の方が下という扱いだったと思う。
だって工場のラインの研修で良くなかったのにそのままそこに配置するってことは、ラインの仕事が出来た上じゃないと事務所の仕事はさせないってことでしょ。
現にそういう空気は工場内に有って中途で現地採用されたオジサンたちは自分は事務所の仕事に就けないからといじけているようにも見えた。それが定時採用で入って東京から来た俺に対する陰険さにも表れていたように思う。
よく考えたら俺は職安通して就職しているんだから採用時の条件の事務職じゃない時点でアウトだったのでは?研修で見定めた結果とは言え一方的に変更したんだから。
それ以前にもう一つ挫折があった。
1月より教習所に通っていたのだが就職までに卒業できず、寮の近くに教習所が有り転校したのだが前記のような乱れた生活、転校手続きをぐずぐず先延ばしにし、運転は苦手なので中々、通う気にならず、もう期限までに卒業できないだろうと退校を申し出た。受付の人がそれを聞いて慌てて校長に確認に行ったがそのまますんなり手続きできた。
親に出してもらって自分でも出した10数万円をドブに捨てたのだ。
Bラインに配属されて仕事は相変わらず出来ないままだったけど、仕事が終わった後はグジグジ言われることは無かったのが幸いだった。
当時は未成年の飲酒だけではなく、地方は酒気帯び運転にも甘く、定時が終わったら自動販売機で缶ビールを買ってその場で1本飲んで解散することもよくあった。
俺はせめてもの受け狙いで350ml缶を一気に開けた。幸いアルコールへの耐性は強かった。
忘年会でどんどん注がれて潰されそうになったけど、しょっぱい胃液が上がってくるだけで吐くのも我慢出来た。
後で若手先輩に通過儀礼で潰そうとしたけど、強くて勿体ないので今後は飲ませないと言われた。
この宴会の時に来ていたコンパニオンの一人が城之内早苗に似ていて(るように俺には見えた)、あじさい橋を歌って貰ったらそっくりで感動した。