1986年の「ひざげり」-1
そろそろ過去の記憶を整理しておこう。
1986年3月
高校卒業。暗い高校生活だった。
1986年4月
就職。2社落ちて3社目になんとか拾ってもらった感じ。
1社目は会社訪問での感触良く先方から「ぜひ受けさせてください!」と連絡が来たそうだが本番の面接でビビッてしまって、先の連絡をくれた方々は推してくださったそうだが、この年は高卒の男子は一人しかとらず撃沈。
引っ込み思案の自分には珍しく昼飯の時、同じ高校生男子に声かけて一緒に食べた。彼が受かったのだろうか?
推してくれただけあって当日連絡くれた。高卒は職安経由で1社ずつしか受けられないから不合格の連絡は早い方が良いので。
2社目はすでにうちの高校から男女1名ずつ受けることが決まっていた水産系の会社。もう一人受けさせてと言われてそこに俺が乗っかった形。
当日、3人で待ち合わせたらもう一人の男子が来ない。こいつは同じクラスのI。
結局、Iの所為でギリギリになってしまった。昼休みに食事に行く際に採用担当の暗いおじさんに時間に余裕をもって戻るように言われた。
で、俺だけが落ちた。最初から男女一人ずつしか取る気なかったんだな。酷い会社だ。採用担当の人が声が小さくて何言っているか分からなかったし、水産って言っても捕鯨関係だったし、受からなくて良かったのかも。
3社目が今でもいる会社。こっちは同じ高校の女子、Eさんが既に受かっていて、Eさんが評判良かったので男子もと言われそれに救われた感じ。
Eさんは高校時代は全然、知らなくて(女子が男子の5倍近くいたから)卒業アルバムで顔を確認したくらい。
入社しても配属場所が違った関係で数年はまともに話さなかった。
入社試験は適当な簿記の問題と作文だった。
簿記は得意なので楽勝。作文は「自分の夢」がテーマだった。特に夢も何もないので、夢を持つのが自分の夢的なことを書いた。
バブル前だったので昼飯はプラスチックの容器の仕出し弁当だった(バブル入社のやつらはすき焼きとかに連れて行って貰ってた)。
同期のIBがこの時に俺が必死に作文を書いていたと後にからかってきたが、試験に必死になるのがなんでおかしいのか?
こいつは経理の仕事のことも「女の仕事(を男がしている)」とからかって来たりデリカシーの無い奴だった。
後にIBは本人の結婚式の二次会の胴上げ時に路上でパンツを脱がされてひと悶着あった。因みに犯人は俺では無い。
入社式は4月1日。
会場に入るとなんか仲良さげにしている人がちらほらと。地方から来た同期は前泊して飲みに行って既に顔見知りになっていたのだ。
高校時代の二の舞だけは踏みたくない俺は仲間には入っていけないものの笑顔で居るようにした。後に同期のOSさんに「ニヤニヤして気持ち悪い奴だと思った。」と酷いことを言われたが。
今じゃ考えられないが当時は入社式で未成年にもビールを飲ませていた。就職したら未成年でも大人扱い。
同期のHの事は俺と中学が一緒だったSTに聞いて知っていたので話しかけたら変に尖った対応をされた。
翌日の、築地で施設見学をした後、そのまま男子はバスで守谷工場の寮へ。女子はそれぞれの配属先へ。茨城、東京に配属された女子意外とはそれっきり会うことは無かった。
男子だけ3ヶ月茨城工場で研修を受けるのだ。男女雇用機会均等法施行された年なので、募集・採用、配置および昇進について女子を男子と均等に扱うのはまだ努力義務だったのだ。
俺は一人暮らしをするのも東京以外に住むのも初めてだった。
夜7時には街灯が少ないため真っ暗になることに驚いた。
最寄りのコンビニに行くのに徒歩だと買い物時間を含めて一時間近くかかった。
田舎はイヤだと本気で思った。
なので週末ごとに家に帰っていた。洗濯物を持って。
恥ずかしながら当時は洗濯機の使い方が分からず、同期に聞くのもなんか恥ずかしくて嫌だった。
当時、土曜日は隔週休みだった。
週末に実家で食事してテレビを観てマンガを読んでいるのが幸せだった。
日曜日の晩飯を食べてから寮に戻る道のりがとても寂しかった。
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まだ在職しているのですか?
Re: 1986年の「ひざげり」-1
Eさんとは後には話すようになりました。
同じ部署の別の同期女子と俺が険悪になり、その同期女子が辞めた後に。女子同士は面倒ですからね。
Eさんも結構前に辞めました。
理由は覚えていませんと言うか聞いてないかな?結婚退職では無かったです。