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1988年の「ひざげり」-1

引っ越ししたのは何月だったか?
茨城に居たのがほぼ二年だったことは覚えているのだが。
寒くはなかったような。3月くらいかな?
実はこの時、背広が無かった。入社してから2年で体重が85kgくらいから100kgオーバーになり、入社式の時のスーツは着られない。

当時は今と違って大きいサイズのスーツを買えるところを探すのも大変だった。
とりあえずワイシャツにネクタイ締めて、下はスラックス、上は厚手のジャンバーを着ていた。Yシャツは店で売っていた一番大きなサイズだったが俺には小さく、ネクタイの左右は紐状態。ちゃんと締まることは無かった。
母親が近所のおばさんからダイエーなら大きなサイズが売っていると情報を仕入れ何とか入るスーツを買ったのは東京に転勤してから何か月経ってからだったかな。

出社した初日にその部署に先に配属になっていた同期のOSNさんが飲みに誘ってくれた。
俺が引き継ぎをする妊娠中のKBYさんも、一緒に仕事をすることになるSN(女性)さんも同期だった。
ん?と言うことはKBYさんは実質2年ちょいで辞めたのか。
同期は80人くらいいたから東京にはたくさん配属されていたのだ。

東京の部署はそれまで居た部署と真逆でやたらうるさいことを言われた。
「家じゃないんだから電話はもしもしじゃなくて、はい、と出るんだ。」
とか常識的な事を言うだけなんだけど、問題は特定の教育係が居て教えてくれるわけじゃなく複数の先輩(俺から見たらおっさん)がみんなして同じことに対して競うように注意してくる。これはかなりのストレスだった。
定時で上がり自宅に帰ると晩飯の時間まで起きていられず寝る。
毎朝、駅や電車で鼻血が出る。
100kgオーバーの体重が数ヶ月で80kg台まで戻った。
まだ若くて実家だったから耐えられたんだろうな。
今思い出すと何もかもが軽いパワハラだったと思う。


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1987年の「ひざげり」-3

時間は前後していると思うが茨城時代の思い出を書こう。

翌年、新入社員が入って来たが殆どが自分より年上だった。
でも一応、大体はさん付けで呼んでくれた。
その新入社員から何かのイベントの残りの当時、発売されたばかりのアサヒスーパードライを貰った。飲んだら何か生臭く感じた。その後、あんなに売れて、後追い商品が沢山出て、美味しんぼでディスられるとは思わなかった。

ブラジルから研修に来ていた日系のUさんと言う人が居た。
同じ組立ラインでも研修していたので仲良くなった。
他にもボッキー先輩と言う数年先輩の人も同じラインに研修に来た。なんでボッキーかと言うと仕事中に突然「勃起しちゃったよ。」って報告してくるからだ。

ある日、みんなでディスコに行こうという話になった。俺は嫌がったが無理やり連れていかれた。着ていく服がないので入社式の時に来たスーツを着ていった。ウェストが閉まらなかったが。
Uさんにも奢るから行こうと先輩が声かけたが「いつもそれだと心が寂しいのヨ」と遠慮して来なかった。
ボッキー先輩はノリノリで踊って俺を無理やり躍らせようとしたが無理だった。
フリーフード、フリードリングだけむさぼった。
これが俺の最初で最後のディスコ体験である。
ボッキー先輩は海外に赴任する予定だったが赴任先のリーダーとの面談の前日、飲み過ぎて面談で失敗し保留になってしまい結局、辞めた。

同期と同期の彼女とその同僚、10数人で旅行に行った。
同期の彼女の職場の保養所だった。
往復、車に同乗したのだがどうしても眠くなり運転手のNGTさんに怒られた。

同期の女子は三人、茨城工場に配属されていた。
なぜかその三人は食堂で俺を見かけると笑う。凄く不愉快だった。同期に愚痴っても「気のせいだよ。」とか「笑顔になるんだから良いじゃん。」とか言われて余計に腹が立った。Hは「笑ってる。笑ってる。」と面白がっていた。
その内の一人の事を派遣社員のABちゃんの同僚が気に入って部屋飲みに誘ったという。
それに俺も呼ばれて彼等の宿泊先のアパートに行ったが当然、すっぽかされた。
何故俺を見て笑っていたのかはいまだに不明だ。三人中、二人はとっくに退職している。一人は残っているけど聞いたところで覚えていないだろう。
やられた方は忘れないけど、やった方は覚えていないのだ。
同期主催の俺の送別会にもこの三人は当然、来なかった。花束だけくれたが。その花束は寮を出るときに大きめの牛乳瓶に生けて玄関に置いて行った。
後で寮母さん的な人がその瓶にアルミホイルを巻いて少しおしゃれになっていた。

あ、そう言えばこの同期女子達は一度も飲み会に来なかったな。今思い出した。
最初の同期会の出欠を寮のホワイトボードに書いてあって、この女子たちの名前も書いてあったのだが誰かがそのうちの一人に酷い渾名を書き足した。性的な意味の言葉だ。
多分、それを知って彼女たちは同期のイベントには出ない事にしたんだろう。女子は一緒に行動するし。

同期の中には当然、酷い人も居た。
WTNさんと言う人が俺の電気ポットを貸してくれと言うので貸した。そしたら水位が見える窓に麺が一本入って帰ってきた。
怒ったらWTNさんはKMMさんがやったたという。
KMMさんに怒ったら「WTNだよ。あいつはすぐ嘘をつく。」と
WTNさんは癲癇の持病があり、薬を飲み忘れて何度か職場で倒れた。すぐ辞めた。
そう言えばKMMさんの部屋でトレーシーローズの裏ビデオを観たっけな。

この年に行われた極真会館主催のオープントーナメント第四回全世界空手道選手権大会を観に行った。
母親にチケットを買って貰った。田舎じゃどこで買っていいか分からないし。
初日、二日目がS席で、三日目は売り切れていたのでB席だった。
生まれて初めての格闘技観戦だった。試合数も多いし日本対外国と言う目で見られたので面白かった。
三日目、自由席で隣り合った同年代の男性に「どちらの支部ですか?」と聞かれた。俺は観るだけな一般人だったのでその通り伝えた。
彼は九州の方から来ていて親戚の家に泊めてもらい、今日、大会が終わったらこのまま帰るそうだ。
彼の支部の人が彼を見つけて「みんなあっちに居るから来いよ。」と誘った。彼は俺に気遣ってくれたんだろう「ここで観ます。」と断った。
松井選手が優勝して日本選手団が王座を守った。彼とは握手して別れた。
俺は茨城の寮に帰る途中、駅の販売機で缶ビールを買って一人乾杯をした。

異動の最後の挨拶を隣の部署の山猿にしたら「なんだ冷たいじゃないか」と笑顔で言っていた。
異動先の部署はこっちの部署の系統だったからだろう。
この世代はこういう仲間か仲間じゃないかで分ける傾向が強かったな。


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1987年の「ひざげり」-2

アフターサービス部門に異動になることが決まったもので会社に自動車の免許を取りに行けと言われた。
2回目の自動車学校入学だ。
お金が無いから厳しいと言ったけど流石に補助はしてくれなかった。仕事中に教習に行くのは大目に見てくれたけど。
2回目なので余裕はあった。

アフターサービス部門は雑だった。凄く雑だった。
仕事は教えてくれない。職人の世界。
安全よりも早く仕事を終わらせることを優先。
機械を分解する際にまだ通電していて感電してしびれるので電源を切ってくれるように言っても、面倒くさそうな顔をして軍手を投げて寄越す。
アンモニアがまだ残った状態で作業をさせる。アンモニアは臭いって言うけど実際は臭いってレベルじゃなくて鼻の奥を叩かれたような痛さだ。

こんな感じなのでどう仕事してよいか分らず半分、遊んでいたようなもんだ。
おかしなことにアフターサービス部門がもう一つあって隣あわせの位置にあったのだが仲が悪かった。
特に向こうのリーダーがこっちを敵視していた。
このリーダー(以下、山猿)は自分より下の人間には平気で失礼な事を言うので嫌いだった。今でも嫌いなくらい恨みがある。
山猿に初対面の時に
「ひざげり君はどこの出身?」
と聞かれたので東京だと答えると
「なんだそうは見えないな。栃木の山奥から出てきたのかと思ったよ。」
と言われた。
初対面でこれだから後は推して知るべし。

結局、このアフターサービス部門には半年くらいしか居なかった。
急遽、本社で事務をやらないかと言う話になったのだ。
当時は女性社員は妊娠、出産したら育児休暇明けにそのまま辞めるのが通例になっていた。
なので女性の事務だと折角、仕事を任せられるとなったら辞めてしまうので次は男が良いと言いうことになり、そこでやっと事務職で採用した俺を事務職にしようとなったのだった。

環境が変わるのをというかフィリピンパブに行けなくなるのが嫌な俺は抵抗したが会社が決めたことを変えるわけがない。
いま思えばラッキーな異動だったのだが。実家に帰れるし、自分の得意分野の仕事になるし。
皮肉なことにアフターサービス部門に異動になったから通いだした教習所の卒業および運転免許試験に合格したら異動となった。
無事卒業出来て、運転免許試験場に受験しに行くことになったのだが場所は水戸。同じ県内とは言え遠い。始発電車に乗って行った。受かったから良かったようなものの、なんて不便なんだと思った。だって東京の運転免許試験場の方が近いんだよ。
でも、後で考えたら、どうせ実家に引っ越すんだから先に住民票を移動して東陽町で受ければ良かった。

引っ越しで心が折れそうになった。
ギリギリになったのでとても間に合いそうになく、このまま寮を1ヶ月借りて少しずつ整理して引っ越そうと思ったが、そうすると寮費の会社負担分が無くなるので4万円近い負担になると言われて愕然とした。
そんな中、仲良くしてた年上派遣社員のABちゃんが部屋に来て手際用パッケージしてくれて何とか間に合った。
TKNも手伝う体で部屋に来たけど、マンガを読んで邪魔していただけだった。

TKNで思い出したけど、高校の文化祭に卒業の翌年に行こうと思いTKNを誘った。
俺は一応、文芸同好会の会長をやっていたので後輩に良い顔しようと思った。
TKNは俺と約束した後にブラジルの悪魔に同日の早大の学園祭に誘われてそっちに行こうとした。
さすがに怒ったらこっちに来ることになったけど
「文化祭でお前と一緒に居て笑われないか?」
と素敵な言葉を残してくれた。

フィリピンパブにいつも送り迎えしてくれた組立の先輩、週末に実家近くまで送ってくれたYMDさん、引っ越しを手伝ってくれたABちゃん他、なんの恩返しもしないまま付き合いが無くなってしまった方々が思い出され、子供だったのでしてもらって当たり前と思っていた当時の自分を恥ずかしく思う。
なんの恩返しもしないまま音信不通になってしまい申し訳ない。
組立の先輩はほどなく転職し、YMDさんは海外に赴任して赴任先の国で転職、ABちゃんは派遣の期間が終わりどこかに行った。

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1987年の「ひざげり」-1

高3の時の同級生何人かになんとなく年賀状を出してみた。
返ってきたのは一人だけだった。こいつは前に書いた都庁に採用されたと自慢の電話をしてきたTKSだ。
その自慢の電話の時に「ひざげりに年賀状出したかって聞いたら、みんなあいつになんか出すわけないだろって言ってたぞ。」とわざわざ教えてきた。どちらも最低だ。

就職1年目の冬のボーナスは手取りで15万円くらいだったか?
殆どフィリピンパブで使った。

この年の春にアフターサービス部門に異動になった。
まだ組み立てラインの仕事もまともに出来ていないのに不安しかないし、慣れた環境が変わるのが嫌なので抵抗したが無駄だった。
この異動は同期のTKNと一緒だった。
異動直前にアフターサービス部門のオジサン二人が酔って寮に来て呼び出された。そこで絡まれた。俺はまだ19歳だ。どうしたら良いのか分からず会社を辞めようかと思った。

そうそう、寮は誰でも入れる感じで印鑑のセールスマンに部屋に居座られたことが有った。
TKNは俺の部屋に居てマンガを読んでいたのだが途中で逃げた。まだ子供だったが何とか断った。今なら両方に切れていたと思う。

その後、泥棒が入った。中途で入ったYMDさんがテーブルの上に置いてあった1万円札が無くなったと言うので総務に言いに行った。その時、TKNは「俺の部屋は金を置いてあったけど無くなってない。」と自慢げに言っていた。
何日か経って仕事中に寮生が食堂に呼ばれた。TKNが焦ってどこかに行こうとするので食堂に行かないのかと声をかけたが、真っ青な顔をしてどこかに行ってしまった。
後で分かったがTKNは現金は取られなかったが通帳と印鑑を盗まれており、全部引き出されていたのだった。現金を取らなかったのは発覚を遅らせるためだったんだろう。
なお俺の部屋は金も金目の物も無かったので何も取られなかった。

YMDさんは週末に車で自宅の最寄り駅まで良く送ってくれた。電車だと2時間半かかるのに高速使うと空いていれば30分で着いた。

異動後も組立ラインの先輩と相変わらずフィリピンパブに通っていた。
その先輩が企画してフィリピンパブの女の子たちを店に内緒で誘って車で日光に日帰り旅行をした。
帰り車内のテレビで第四回世界大会のテレビ放送を観た記憶が有るから12月か翌年の事だったかも知れない。
ちなみに手も握ってない。

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1986年の「ひざげり」-4

この年、アイドルの岡田有希子が飛び降り自殺した。
このニュースは寮の隣室のHの部屋で頼み込んで録画しておいて貰った夕やけニャンニャンを観て知った。
逸見政孝が番組中のニュースコーナーで触れたのだ。
このころは写真週刊誌全盛期で岡田有希子の遺体を載せた写真週刊誌もあった。

ビートたけしがたけし軍団を引き連れてFRIDAY編集部に殴り込みを行った。
軍団は本当に軍団だったんだ。
この殴り込みに行かなかった軍団員以外はしばらくテレビに出られなくなった。
確か冠番組の中で「OH!たけし」だけ打ち切りになった。



たけしの番組の中では地味な方だったけど、俺は結構好きだった。
たけしが父親、もたいまさこが母親、小林聡美が娘、息子が石倉三郎、島崎敏郎の家族のコントが好きだった。上記動画を観ると石倉三郎は他人役だけど息子役もやっていたと記憶している。

この頃、B(ジョンナム)が勧めてきた美味しんぼの単行本を読んで影響を受けた。
Bに勧められたので抵抗が有ったが、暇だしと読んでみたら面白かった。このころから青年誌のマンガを読むようになった。
日本酒は純米酒だと近くの(近くないけど)酒屋で純米酒を買った。

高校生の時点ではアニメソング、とんねるず、おニャン子クラブしか聴いていなかったが、背伸びしてナウい音楽で聴いてみようとジャケ買いしたのが米米CLUBのセカンドアルバムだった。
後はオールナイトニッポンを聴いていた関係で爆風スランプも。

この年、デーモン小暮がライブ中に骨折して休業した。



これにより暫く休業。
サンプラザ中野のオールナイトニッポンで追悼?で爆風スランプの「星雲」を流した。

CDがアナログレコードと入れ替わりつつあった。
このころはまだCDをプレイできるハードは持っていなかった。
寮の部屋にはラジカセとテレビだけが有った。
寮に住んでいたフィリピンから研修で来ていたMさんが奥さんへのボイスレター用に使いたいとたまに俺のラジカセを借りに来た。







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1986年の「ひざげり」-3

高校三年の時になって空手バカ一代に今更、ハマり地元の本屋でパワー空手を買って貪る様に読んでいた。
研修中、家に帰った時に地元の本屋で買って読んだパワー空手の最新号の、総本部昇段審査会特集の中の二十人組手受審者に見たような顔が。
あれ?これ同期のKKさんじゃ無い?出身大学も一緒だし名簿を見たら同姓同名だった。
確認したら正に後のブラジルの悪魔K子さんだった。

研修が終わり各自配属されたあと、土曜日の夜に年上同期のYGさん、AZさんに声をかけられ近所の炉端焼き屋にたまに飲みに行く様になった。
近所といっても片道徒歩20分以上はかかったと思う。
じゃがいもチーズ焼きがお気に入りだった。

この年の秋ごろだったろうか?会社の若手先輩に連れられてフィリピンパブに初めて行った。未成年なんだから当たり前だけど。
見事にハマった。

茨城工場は当時は若い女性社員が少なく、工場の現場には皆無なので話す機会は無かった。というか機会が有っても恥ずかしくて話せなかった。
だがフィリピンパブでは酒の力も借りられるし、相手が外国人(しかも明るい)と言うことで気安く話すことが出来た。

片言の英語と日本語でコミュケーションを取りしやすかった。
だがキャストの多くは6か月の労働ビザで来ており仲良くなってもすぐに別れが来る。

当時の飲み方は今思うと変わっていて、寮で晩飯を食べたら先輩に車で迎えに来てもらい、そのままフィリピンパブに。
そこでセット料金で何時間も飲む。今思えば先輩にもお店にも悪かったな。

なお、なんでフィリピンパブだったかというと当時はバブル直前で景気が良く、日本人の若い女性は田舎のスナックには居なかったからだ。みんな東京に働きに出て行ってたのではないかな?
この頃になると週末に飲むのが楽しみだったので家には帰らなくなった。

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1986年の「ひざげり」-2

研修の座学の試験では前にも書いた通り最下位を取ったことが有る。
土台、院卒から商業高校卒まで一緒にやったって無理だよ。こっちは数学Ⅱまでしかやってないし、そもそも眠くて起きていること自体が困難だった。

しかし、落第は座学だけではなかった。工場の現場各所の研修でもついていけずに味噌っかす扱いされた。
実際何も出来なかったが、それにしても工場のオジサン達の中には陰険な人も多かった。
何も分からないまま必死になっている時に地震が有ったが気付かなかった。そのことを教育役のオジサンが別のオジサンに向けてジェスチャーで俺の事を「こいつはバカだから」とやった。
他にもほぼキチガイと言ってもいいオヤジも居た。何を喋っているのか分からない(訛りの所為ではない)からこっちが戸惑っていたり間違ったりすると切れて工具を投げてきた。なんであれを放置していたのか理解できない。そこに派遣で来ていた先輩が休みがちになってからすぐ居なくなった。
後はそのラインのリーダーに
「新幹線が何で早いか知ってっか?全部の車両が同じ速度で走るから早いんだぞぉ。」
と説教された。言いたいことは分かったが、別にわざと手を抜いてゆっくりやっている訳じゃなく本当に早くできないだけなのにそんな事言われても困ると思った。
ここまでに書いたオジサンたちは組立のAラインの人たちで、隣のBラインの人達はここまで陰険ではなく、若手の先輩も口は悪いけど親切だった。
ジャニーズじゃないけど若手の先輩の事は君付けで呼んでいた。

ま、俺もコンディションを整えようとしなかったのが悪いんだけどね。
高校時代からハマった「とんねるずのオールナイトニッポン」を聴きたくてタイマーも何もないラジオに120分テープをセットし、番組の始まりまで起きていて録音のボタンを押す。火曜日の1時まで起きているのはリスキーだった。
しかも晩飯の後にジュース1リットルとお菓子を食べている。こりゃ乱れすぎだ。

お陰で本来は購買部門に配属される予定だったのが寸前に呼び出されて
「向いてないんじゃないか」
という理由でそのまま工場の組立ラインに配属された。幸いBラインの方だったけど。
別に組立ラインなら俺が仕事が出来る訳じゃなくて、単に事務所での仕事より工場の現場の方が下という扱いだったと思う。
だって工場のラインの研修で良くなかったのにそのままそこに配置するってことは、ラインの仕事が出来た上じゃないと事務所の仕事はさせないってことでしょ。
現にそういう空気は工場内に有って中途で現地採用されたオジサンたちは自分は事務所の仕事に就けないからといじけているようにも見えた。それが定時採用で入って東京から来た俺に対する陰険さにも表れていたように思う。
よく考えたら俺は職安通して就職しているんだから採用時の条件の事務職じゃない時点でアウトだったのでは?研修で見定めた結果とは言え一方的に変更したんだから。

それ以前にもう一つ挫折があった。
1月より教習所に通っていたのだが就職までに卒業できず、寮の近くに教習所が有り転校したのだが前記のような乱れた生活、転校手続きをぐずぐず先延ばしにし、運転は苦手なので中々、通う気にならず、もう期限までに卒業できないだろうと退校を申し出た。受付の人がそれを聞いて慌てて校長に確認に行ったがそのまますんなり手続きできた。
親に出してもらって自分でも出した10数万円をドブに捨てたのだ。

Bラインに配属されて仕事は相変わらず出来ないままだったけど、仕事が終わった後はグジグジ言われることは無かったのが幸いだった。
当時は未成年の飲酒だけではなく、地方は酒気帯び運転にも甘く、定時が終わったら自動販売機で缶ビールを買ってその場で1本飲んで解散することもよくあった。
俺はせめてもの受け狙いで350ml缶を一気に開けた。幸いアルコールへの耐性は強かった。
忘年会でどんどん注がれて潰されそうになったけど、しょっぱい胃液が上がってくるだけで吐くのも我慢出来た。
後で若手先輩に通過儀礼で潰そうとしたけど、強くて勿体ないので今後は飲ませないと言われた。
この宴会の時に来ていたコンパニオンの一人が城之内早苗に似ていて(るように俺には見えた)、あじさい橋を歌って貰ったらそっくりで感動した。







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1986年の「ひざげり」-1

もう50代半ばも近くなり記憶もあやふやになって来た。
そろそろ過去の記憶を整理しておこう。

1986年3月
高校卒業。暗い高校生活だった。

1986年4月
就職。2社落ちて3社目になんとか拾ってもらった感じ。

1社目は会社訪問での感触良く先方から「ぜひ受けさせてください!」と連絡が来たそうだが本番の面接でビビッてしまって、先の連絡をくれた方々は推してくださったそうだが、この年は高卒の男子は一人しかとらず撃沈。
引っ込み思案の自分には珍しく昼飯の時、同じ高校生男子に声かけて一緒に食べた。彼が受かったのだろうか?
推してくれただけあって当日連絡くれた。高卒は職安経由で1社ずつしか受けられないから不合格の連絡は早い方が良いので。

2社目はすでにうちの高校から男女1名ずつ受けることが決まっていた水産系の会社。もう一人受けさせてと言われてそこに俺が乗っかった形。
当日、3人で待ち合わせたらもう一人の男子が来ない。こいつは同じクラスのI。
結局、Iの所為でギリギリになってしまった。昼休みに食事に行く際に採用担当の暗いおじさんに時間に余裕をもって戻るように言われた。
で、俺だけが落ちた。最初から男女一人ずつしか取る気なかったんだな。酷い会社だ。採用担当の人が声が小さくて何言っているか分からなかったし、水産って言っても捕鯨関係だったし、受からなくて良かったのかも。

3社目が今でもいる会社。こっちは同じ高校の女子、Eさんが既に受かっていて、Eさんが評判良かったので男子もと言われそれに救われた感じ。
Eさんは高校時代は全然、知らなくて(女子が男子の5倍近くいたから)卒業アルバムで顔を確認したくらい。
入社しても配属場所が違った関係で数年はまともに話さなかった。

入社試験は適当な簿記の問題と作文だった。
簿記は得意なので楽勝。作文は「自分の夢」がテーマだった。特に夢も何もないので、夢を持つのが自分の夢的なことを書いた。
バブル前だったので昼飯はプラスチックの容器の仕出し弁当だった(バブル入社のやつらはすき焼きとかに連れて行って貰ってた)。
同期のIBがこの時に俺が必死に作文を書いていたと後にからかってきたが、試験に必死になるのがなんでおかしいのか?
こいつは経理の仕事のことも「女の仕事(を男がしている)」とからかって来たりデリカシーの無い奴だった。
後にIBは本人の結婚式の二次会の胴上げ時に路上でパンツを脱がされてひと悶着あった。因みに犯人は俺では無い。

入社式は4月1日。
会場に入るとなんか仲良さげにしている人がちらほらと。地方から来た同期は前泊して飲みに行って既に顔見知りになっていたのだ。
高校時代の二の舞だけは踏みたくない俺は仲間には入っていけないものの笑顔で居るようにした。後に同期のOSさんに「ニヤニヤして気持ち悪い奴だと思った。」と酷いことを言われたが。
今じゃ考えられないが当時は入社式で未成年にもビールを飲ませていた。就職したら未成年でも大人扱い。
同期のHの事は俺と中学が一緒だったSTに聞いて知っていたので話しかけたら変に尖った対応をされた。

翌日の、築地で施設見学をした後、そのまま男子はバスで守谷工場の寮へ。女子はそれぞれの配属先へ。茨城、東京に配属された女子意外とはそれっきり会うことは無かった。
男子だけ3ヶ月茨城工場で研修を受けるのだ。男女雇用機会均等法施行された年なので、募集・採用、配置および昇進について女子を男子と均等に扱うのはまだ努力義務だったのだ。

俺は一人暮らしをするのも東京以外に住むのも初めてだった。
夜7時には街灯が少ないため真っ暗になることに驚いた。
最寄りのコンビニに行くのに徒歩だと買い物時間を含めて一時間近くかかった。
田舎はイヤだと本気で思った。
なので週末ごとに家に帰っていた。洗濯物を持って。
恥ずかしながら当時は洗濯機の使い方が分からず、同期に聞くのもなんか恥ずかしくて嫌だった。
当時、土曜日は隔週休みだった。
週末に実家で食事してテレビを観てマンガを読んでいるのが幸せだった。
日曜日の晩飯を食べてから寮に戻る道のりがとても寂しかった。


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プロフィール

hizageri

  • Author:hizageri
  • 東京都城東地区出身・在住。
    昭和43年生まれ、フリーマン。
    ディズニーランドより秋葉原のほうが好き。
    居酒屋通いは平均、週に4.5日。
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